NO FLIGHT,NO LIFE

ノマドフライヤータカのライフログ。

裏プロフィール

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こんにちは!

ドキがムネムネしているTaka(@takapiece)です。

 このプロフィールは読んでいてもあんまり楽しくないと思うので

基本スルーしてくださいということで。

・・・本音は「読まれるのが怖い」です。

 

ただ、現在イロイロと悩みを抱えている人の相談を受けようと思うと

暗い面も書いておかないとな~、と思う次第です。 

親の離婚~祖母に引き取られる~社会人の僕

みんな、人それぞれに人生のストーリーがあって、おおぴらに公開できるものから、死ぬまで自分の胸に収めたままにするものまで、イロイロなレベルのストーリーってのがあると思うんですよ。

 

ぼくが最初に公開したストーリーはいわゆるレベル1

www.takapiece.com

あっさり、流す程度のことを書いてます。

 

ここで書くのはレベル2

もうちょっと踏み込んで、多少ドロドロしてきます。 

最初の記憶

私の最初の記憶は母に捨てられた記憶だ。

何歳の時かは定かではない。

幼稚園に独りで歩いて行って、独りで歩いて帰っていた記憶から3~4歳頃だと思う。

その頃頻繁に見ていた夢がある

小さな私はやたら広い、本当に駄々っ広い畑の端っこに立っていて、畑の反対側で母親が遠ざかって行くのが見える。

「お母さ~ん!」

と叫びながら必死で走って追いかけるんだけど、もの凄く足が重くて

おまけに畑の土に足を取られて何度もコケて・・・

そのたびに必死で起き上がって泣きながら

「お母さ~ん!お母さ~ん!!」

って何度も叫ぶんだけど、全然追い付けなくて。

泥だらけになって泣きじゃくって、

泣いて喚いて・・・。

 

いつもそこで目が覚めて、いつも涙で濡れた跡があった

両親の離婚後

両親の離婚後しばらくの間、自分は父方の実家にいた・・・と思う。

若いころの父は一言でいうと

「ザ・昭和」だ。

僕は気に要らないことがあると、すぐにブーたれていた、そして若干暴れていた、そして父に確実に殴られていた

男は拳で語り合うもんだ」とばかりに、何度も殴られたし気絶しかけたこともあった。語り合う、ではなくて一方的に語られまくった感じだ。

 

この頃小学校は1~2度転校している、転校の挨拶の記憶だけある

学校生活の記憶はない。

けど、転校する度に違う名前で呼ばれているのは分かった。

  • 父の母方の苗字
  • 父の父方の苗字
  • 母の母方の苗字
  • 母の父方の苗字

どれがホントかわからなかった 

親戚の家に預けられた

父方の実家で育てられていた僕

・・・のはずですが

親戚の家を転々としていた時期があります

 

その一つの家でのこと

僕はその家の母親が最高に嫌いで、同い年だった従兄弟と一緒に家出した。

父親の実家にいた時は、家出してもなんだかんだと真っ暗になったらトボトボと家に帰っていたけど、この時は20km程従兄弟を連れ回して警察出動となった。

だからその親戚の家の生活は短かった。

そりゃ~、自分の子供を道連れに家出する奴なんか面倒見切れんわ。 

最終的に

実は、先ほどの家出の時頼って行ったのは祖母の家である。

家出したもののどこに行っていいか分からず、知っている風景を辿っていくとたどり着いた。

 

どうやら、そんな彷徨える根無し草の様な暮らしを目の当たりにして

祖母が自分を引き取ってくれたと思われる

ばあちゃんは気性は荒くて頑固だが面倒見のいい人だった。

ココロを閉ざしていた当時はまったくわからなかったけど。

 

60歳を過ぎて一人暮らしだったのに、突然何もできない子供が転がり込むんだから、相当大変だったと思う。生活のために70過ぎまで近所の工場で働いてくれていた

 

祖母との2人暮らしがスタートした。

母方の祖母の家

古い長屋で、4つの部屋と風呂場、土間には台所があった。

部屋は北から南に向かって玄関から縦並びで並んでいて、一番奥に便所と風呂場があった。

便所の手前の部屋には仏壇と神棚が向かい合わせに在って、しかも一番光が届かない部屋で真っ暗、オマケに日本人形が大量に飾ってあるという・・・。

ある日、「日本人形に襲われる」という今でも覚えてるくらい鮮明な夢を見た。

その夢は今でもトラウマである

今思うと、これはもう狙ってオカルトな部屋にしてあったとしか思えない。

 

毎日、そんなオカルト部屋を往復しながら便所と風呂場に行っていた。

更に便所はポットンでお釣りが返ってくるタイプで、座ると目の前におっかなそうな神サマの絵を書いたお札が貼ってあった。

風呂場に入ろうとすると、たまに手のひらよりでっかいクモが出現した。

へタに騒ぐと恐ろしいので、とっても静かに静かにフロに浸かった。

大雨が降ればマンガの様に雨漏りして、家のあちらこちらに受け皿やバケツを置いた。

 

外ではザーザー、ゴロゴロ。

中ではピン!、トン!、カン!、ポチョ。

 

夜、眠ろうと電気を消したら顔の上をネズミが走っていって、さらに例のでっかすぎるクモも出てきた。

眠れないので電気を点けたらゴキブリが2匹飛びまわっていて、最終的に顔に貼りついてきた。

この出来事も今でもトラウマである

 

まだこんな事は後々笑い話にできる。

環境なんて慣れてしまえばいいが、人間関係は・・・そうはいかない

 

家にはしょっちゅう取り立て屋が来て、祖母と激しく言い争っていた。

そんな日は必ず

「お前の親は・・・!」

両親のバカさ加減について聞かされた。

神経衰弱気味だった自分は順当に内向的に育った

毎日ゲリしてたな~。

 

友達は少な目。

本ばかり読んでいて、運動はニガ手

でも、当時は町内会に子供会の集まりがあって、色々な年代の子供が集まって遊ぶという素晴らしい仕組みが残っていた。

 

結構参加するのが楽しみで「お兄ちゃん」的に慕っていた子もいた。

近所のおばさん達もよく声をかけてくれたり、家に呼んでくれていた。

 

ところがある日、近所のおばさんが「この子は可哀想な子だから」とばあちゃんに言ったところ、「この子は可哀想じゃない!」ととんでもない勢いでブチ切れて、ご近所との付き合いが閉ざされてしまった

 

この時は1年くらい、誰と話す時も「ウン」「ハイ」「ウウン」だけしか喋らなかった。さすがに授業で当てられた時は言葉を喋ったけどね。

「感情があるから辛いんだ」

「感情なんて無くなればいい」

「ロボットのように生きられたらナ」

「・・・なんで生きてるんだろ?」

毎日そんなことばかり考えていた。

 

ある夜、白熱電球を点けたまま寝てしまいそれが倒れて布団が燃えたことがあった。

「このまま火事になって、死ねばいい」

そう思った。

 

結果はボヤで、死ななかったけどね

ひ弱なデブ

僕はアトピー性皮膚炎とぜんそく持ちで

汗をかく部分はいつも皮膚がかゆくなり、じゅくじゅくになっていたし

少し運動するとゼイゼイ言っていた。

おまけにストレスで歯はボロボロ

毎日のようにお腹を下していた

 

しょっちゅう医者の世話になっていて

「なんで生きるってこんなにしんどいんだろう?」

って思ってたし

 

日課のように

「死ねば楽なのかな?でも死ぬのは怖いし・・・」

って考えてた。

 

誰かとつるむことはなかったけど、素行は良くなかった

いたずらを超えるレベルのいたずらをしていた

集団生活最初の記憶

幼稚園

僕の集団生活最初の記憶は1人で通った幼稚園

僕は内向的だったがものを作ったり絵を書いたりするのが好きだった

ある時クラス中の粘土を集めて大きなロボットを作った

それが大好評だったのがとても嬉しかった

すな遊びも大好きだった

 

ただ1人で帰って1人で家まで帰るのは寂しかった記憶がある

小学生

小学校に入ると僕は誰よりも早く学校に行った

どれぐらい早いかと言うと用務員さんより早いので、学校の門は閉まっていた

僕は門の前で用務員さんを待って、用務員さんを見つけると直ぐに門を開けてもらって教室に走っていった

そして視聴覚室に行くとテレビをつけて、ちびくろさんぼを見るのが日課だった

小学校低学年の間はずっとそんな暮らしをしていた

 

小学校高学年になるとさすがに友達ができて、休憩時間中はケイドロをして遊んでいた

運動は逆上がりができない位苦手だったけど

ケイドロで逃げるときは二階から飛び降りたりして結構無茶をしていた

 

このころ「この子は可哀想じゃない!」事件があって、

孤独になった僕は万引き少年になっていった

 

たぶん、何でもいいから人の目を引きたかったんでしょうね。

ある日、万引きのことを学校で自慢していたら、友達が先生にチクって・・

こっぴどく叱られると思ったら、怒られなかったんだけど

 

「警察や親に言わないでやる

将来絶対俺の事を感謝するからな」

 

なんて言われてドン引きした

あの時本気で怒られて親にも言われたほうがよかった気がする

 

とにかく小学校の頃は気分的に最悪だった

何故かそんな自分でも好きだと言ってくれる女の子がいたけど

荒れていた自分はその気持ちに答えられなかった

今でも申し訳ない気分になる

中学生

中学生の頃はご多分にもれず僕も思春期だった

服装を気にしたり体型を気にしたり

人生で1番見た目が気になった年頃だつた

 

頬がこけるほど痩せてなんだか黒っぽい服ばっかり着ていた

その頃仲良くしてくれる友達が何人かできて

おかげですごく楽しい時を過ごすことができた

 

そして先生ともものすごく仲良くなって

職員室までよく遊びに行っていた

今でも感謝している

 

この時僕が変わったきっかけはマラソンだったと思う

喘息でヒーヒー言ってたけど毎日毎日自分で勝手に走り込んで

マラソン大会では常に上位だった

それが自信になったんだと思う

 

友達も増えたし運動は楽しいと思うようになった

その時絵を好きで書いていたんだけど

美術の時間に気合を入れて描いた絵を

先生がみんなの見本にしてくれた

 

その後その絵は後輩の見本として学校に保管されることになった

なんだか誇らしかった

 

根暗でデブで運動音痴でオタクな僕が

運動が得意でちょっと活発な男の子になった

そんな中学生時代

高校生

高校時代はある友人のおかげで充実したものになった

その友人は僕を空手の道に誘ってくれたのである。

 

稽古がある日はいつも一緒に自転車で1時間かけて道場まで通っていた

若干デブだった僕は、いつの間にか腹筋バキバキのイカついお兄さんになっていった

 

同時に僕は高校の演劇部に入った

若干積極的になったとは言え人と喋るのが苦手で喋ることを練習したいと思った

それには放送部か演劇部がふさわしいと思った

 

演劇部に入ると先輩の女子が3人

同期の1年生が2人

合計6人、これで一体何の芝居ができるんだろう?

と思った僕は

何を思ったか知ってる連中に片っ端から声をかけて演劇部に誘っていった

 

すると友達が友達を呼んで

1年経つ頃には後輩も入れて20人近くの大所帯になった

 

結果、演劇部員みんなで近畿大会に行くことができた

個人的には空手の大会では見事優勝し

僕は高校時代に1人で頑張る喜びと皆で頑張る喜び両方を知ることができた

本当に感謝している

 

このように最悪だった幼少期を潜り抜けて

人生の楽しさがわかりかけてきた僕ですが

 

社会人になって、ブラックな洗礼を受けることになります